子の建立と傳へ石造三重の培後にて古来阿育王垓
と称せられて有名である。我が国に於ける最古の
塔の一様式を示す物である。
八幡山城址八幡町の北に聳ゆる今宮山に在り
天正十三年豊臣秀次の築く所、本城二城三城の残
麗尚存す、琵琶湖を眼下に疎し風景絶佳なり。
八幡神社八幡神社八幡町今宮山の麓に在り、郷社なり、
社殿権門共に壮鼠にして境内老杉観意たり、左蔵
長を以つて著はる。
長命寺本堂は特別保護建造物、本尊観世畜は
空海の作と云ふ、西国三十三ヶ所の霊場の一なり
長命山上の風光は松ヶ崎と共に風光絶勝を以て世
に著はる。
島村大字奥嶋の北湖中に突出する所を
伊崎耶山と云ふ。不動堂を安置す、其
山あり、有名なる様飛のある所なり。
沖の島琵琶湖中の最大なる島にして東西三町
南北十五町、戸数百余戸あり、漁業を取業と
風景佳にして小学校求兼編医学校等あり。
賤貴谷にして人馬者、兄弟翁平越前にて、一人の
濱々木神社安土村常楽寺、恋社にして少彦命
の外三神を祀る、社殿拝殿共に壮麗にして廣大な
○業實寺安土村、鹿戸皇子の開基にして薬師如
来を安置し本尊を始め国質多し。
総見寺安土山の山陵にあり、臨済宗關可和尚
の開基にかゝり織田信長の本願所たり、三
仁王門共に国実に指定せらるゝ物数多し
浄嚴院安土村大字恩院に在り、織田信長の
建立で明恋上人の開創である。天正七年浄土、法
篭、両宗の論蔵がこの寺で行はれ、世にこれを安
土宗論と称する。本堂及本尊、阿弥陀如来坐像は
共に国実に指定され、其の他見るべき物多し。
安土城址安土村大字下豊浦にあり、山は高さ二
町餘、周圍二里、東西北の三方湖に面す。天正四
年織田信長居城を築く、頂上に天主關(本邦最初
の天主)本城、二城、三城等の殘、石垣等其の
他徳川家広、羽柴秀吉、其の他各将の邸趾皆存在
す又信長の増瘍莊嚴にして山上の風景亦佳なり。
観音正寺安土関東三軒、寺は観音寺とも呼ばれ
聖徳太子の創建と傳へ鐵山五古刹の一である。佐
々氏の館址で観音寺城と称し、累代こゝ
に據つたが永禄十一年織田信長に攻められて寺も
また兵変に遭ひ後漸く舊規を復して現時に及んだ
本尊の千手観音立像は木造にて国実に指定されて
居る。
源義経元服道羅鎮宿に古池あり、義経絞馬寺
を去りて陸奥に赴かんとし此の池の水を汲みて元
服せしと云ふ。
阿賀神社中野村大字小県にあり、奇岩堂石の間
に建てられ参拝する者路を絶へず遠く京阪地より
も参詣者多し。
も参詣者多し。
石塔寺櫻川村大字石塔にあり、寛弘三年の建
立なりしが後火災に罹り北叡山の僧行医之を再興
す、堂字は特別保護建造物なり。
編向神社日野町大字村中に鶴座す、天徳日命外
二神を祀る。欽明天皇六年綿向舟に縄座せしを後
現位に遷す、明治四十年県社に変せらる。
止明寺日野町松尾にあり、聖像太子の開基と
云ふ、天台宗の大寺なり、普正明寺の勅額を賜ふ
又音明院の宮より後水尾天皇の尊像を密附せら
る
西明寺西大寺村字西明寺にあり、厩戸
皇子の開基、後白河法皇の勅願所となり、
現今の堂字は寛永年間中の再建にして特別
保護建造物に指定さる。
三
瓦屋寺
西北約一料半。聖徳太子の開基と傳へ本尊
千手観音立像は木造藤原時代の佳作で国実
になつて居る。俗称芋観音と云ひ痘瘡除け
として古來芋を仏前に供へる事が行はれて
居る。
沖野ケ原飛行場八日市町の東南部にて御
園、沖野、玉緒の三村に路つて東西一〇九
一米、南北一三八二米、面積約十六萬六千
アールを占める。大正十年航空第三大隊を
こゝに置き同十四年飛行第三騎隊と改称さ
れた。騎隊は飛行場の東面御囲村にある。
太郎坊
隣の北五〇○米算作山の南側山腹にある。
山は全山巨巌怪石多く山麓より本殿に至る
空道続き諸堂その途に散在す。厄除幸運の
神として参拝者多く特に六月二十三、四日
の兩日の千日会は雑沓を極める。
伊庭内湖、遊園地
に内渕とも云ひ、中の湖の名もある。当内
湖の東岸に有り、単
…………………………………………………………………………………………………………………………………内内…内内内………内内…内…
湖は琵琶湖の内湖中最大の内湖にして湖中
多くの魚族の産明場だと云ふ。この内湖に
臨み金刀比羅宮あり、其の境内で春秋は魚
釣、春は花、夏は水流等遊客多し。
一馬寺南五箇荘村織山の中腹にある、
石馬寺
聖徳太子の草創と傳へ、永正年間近江国守
護佐々木高頼篤く歸佐し盛に堂塔を興した
が永禄年間兵発に遭つて焼失した。寛永十
一年徳川家光上洛の折、能登川村に設けら
れた御茶屋を寄附せられ移して方丈とし正
保元年仙臺松島瑞嶽寺中興の雲居国師来つ
て留錫し、爾来臨済宗に改察した。山麓に
三門あり、大佛実殿、方丈、太子堂、行者
堂、円魔堂等の諸堂字がある。本尊阿弥陀
如來坐像は寺傳惠心僧都作と傳へ法界定印
を結んだ丈六の彌陀で藤原時代の作にかゝ
り国実に指定されて居る。
一阿勃紹眉
金剛輪寺
氷源寺臨済宗永源寺派大本山にして鹿
安元年近江国守佐々木氏頼入元来法の僧寂
室(元光禅師を深く尊信し林察のこの
地に伽藍を建て禅師請じて開山とした。貞
治六年七十八歳を以て赤寂し、應安二年勅
して聞応禅師の発號を賜つた。総門を入り
て山門を潜れば大方丈あり、本尊世纉観世
音菩茂釋迦如來、佛頂國師の眞像を安置し
方丈の右手に法堂開山堂あり、寺実に寂室
和尚遺識一編あり、紙本畳書で國實に指定
され、寺は愛知川の上流右岸にあり、鼻象
山を負ひ山中に自生する多數のやまもみぢ
の外種々紅葉樹があつて紅葉の勝地として
夙に世に知られて居る。
撮影輪寺(泰川村松尾寺
基菩薩の開基にかゝり聖武天皇の勅願所で
慈覺大師登山以來三密職仰の道場になつた
と云ふ。鎌倉時代には守護佐々木氏の帰依
を得、本堂弘安在銘の大須弥壇には其の紋
所が様められてその宗信を思はしめる。又
寛元四年三重塔婆建立観進文や正徳三年の
一切画書字願文の如き何れも當代巨刹とし
ての俤を示すものである。本堂、明臺院(大
同彈悪脚魔)阿彌陀と共に国
實に指定され實物等數多く見るべき物多し
聲滿神社源賴朝がこの社地の竹を採つて
旗竿としたと云ひ、其の縁故より武門の信
仰あつく、本殿の前面にある四朗門は永享三年の
建立にして形体稍特殊の趣があるが頗る優美で室
町時代の特色を発揮し国実に指定されて居る。
同国花澤及北花沢花ノ木自生地東押立村大
字北花露の島地には一株の旗本があり根元の周囲
五米、高さ一七米半、目通周囲二米半。約三米の
高處にて六本の太い枝に分かれて居る。また附近
南花園の村社八幡神社境内にも一株の雄木があり
目通り周囲三米半、上部は二本の太い枝に分かれ
て居る。(指定天然紀念物)
矢取地藏堂
の地戯像とは様武異にして左手に実珠を持ち、右
手には錫杖の代りに征矢を携へ、鎌倉時代の製作
にかゝり国実に指定されて居る。何この地頭に
附堕した縁起一巻あり、平安時代から室町時代に
及んで絶へなかつた。愛知郡、安孫子庄と押立庄
との間の用水争の際に、奇瑞を現じた説話が其の
内に書かれてある。
押立神社會社西押立村北殿は三間社派
造、屋根檜皮奪で前面に一間の向拝を附け屋根の
幻配様かにして極めて軽妙の趣がある。大門は四
国門にして本堂と共に国実である。
白清寺
で寺実の経本著色日吉山王神像、耕紙金泥妙法録
であで、育…………………………………………………………………………………………………………………、
経入黒漆蒔絵団一合は国実措定物である。
善明寺阿彌陀坐像
・春日神社本
股へ團実)
大
井伊大老綱像彦根尾末町、櫻田門外の雪と散
つた彦根編主井伊直錦を負ぶため明治四十三年建
設した物で、衣冠束帯の正髪をなして居る。
彦根城址
彦根城址
つた所で開ケ原戦後慶長九年より二十箇年を経て
完成し。周圍四料に及ぶ大城で井伊三十五万石を
累世し明治維新に至つたが維新後破却を免がれ今
日に至つた。天守閣上に登れば太湖及彦根全町を
一眸に見渡され眺望絶作である。
玄宮園、楽々園玄宮国はもと八景なと呼ばれ
旧藩主の庭園にて湖の水を引き入れて池を造り近
江八景に倣うてある。
楽々国はもと槻御殿と呼ばれ、旧藩主の別業で建
繁数奇を尽して居る。今は共に町有に帰し料理旅
館を営んで居る。
来迎寺阿弥陀座像木像にて建久七年の遣で
ある。
水産試験場
設、面積約一、二六アール、試験場が一年に琵琶
渕へ放流する数は纏六百五十万、鶴七百三十五万
幾百万と云ふ。
佐和山城址豊公全盛の頃石田三成の居城たり
し盛にして佐神山にあり、今尚廃墟を存し当年の
跡を偲ぶに足るべし。山腹には三成の為があり好
か忠か英魂眠る處風寒きを覺ゆ、山蘭の大洞は支
湖に臨める桜の名所にして花時の風光湖面に浮び
て甚だよし。佐和山神社又此の山麓にあり、縣社
………………………………………………………………………………………………………………………………。。。。。。。…アン…い…。アい…
り境内には血梁の溝あり。
にして直政直孝の霊を祀る、社殿の内部縣湊を為
大洞辨財天佐神山の西蘆松原内湖の大洞山に
ある、実者多く境内からの眺望がよい。
多賀神社多賀村多賀にあり。天照皇大神の御親
伊邪那鼓尊伊邪観矣尊を祀る、鶴座は違い上代に